遠山の金さんの日
「遠山の金さんの日」は1840(天保11)年のこの日に名奉行として知られた「遠山の金さん」こと遠山左衛門尉景元が北町奉行に任命されたことが由来です。
同じく「大岡裁き」として有名な大岡越前も記念日があり、こちらは2月3日となっています。
遠山景元という人物
“遠山景元(とおやま かげもと)”は江戸時代の旗本で、天保年間に江戸北町奉行、大目付、後に南町奉行を務めた実在の人物です。
時代劇の『遠山の金さん』及び『江戸を斬る』の主人公のモデルとして知られており、この“金さん”という呼び名は実父と同じ通称の“金四郎(きんしろう)”からになります。
1840(天保11)年には北町奉行に任命され、1841(天保12)年に始まった“天保の改革”においては分不相応の贅沢などを禁止する命令を出し、寄席の削減なども実行していましたが、町人の生活と利益を脅かすような極端な法令の実施には反対しており、このことから当時の老中水野忠邦や目付の鳥居耀蔵と対立してしまいます。
水野が鳥居の進言を受けて芝居小屋を廃止しようとした際、景元はこれに反対して浅草猿若町への小屋移転だけに留めており、この景元の采配に感謝した関係者がしきりに景元を賞賛する意味で“遠山の金さん”という題目を上演しました。
鳥居という人物が元より評判の悪かったこともあって“遠山=正義”というイメージが広く浸透することになったのです。
その後も改革に抵抗する姿勢を続けますが、1843(天保14)年には鳥居の策略により北町奉行を罷免、大目付となります。
肩書きの上では昇進ということになるのですが、当時の大目付という職は諸大名への伝達役に過ぎなかったため実質的に閑職に追いやられたのでした。
同年の9月、老中水野は改革の失敗により罷免、鳥居は反対派に寝返ることでその地位を保ちますが、翌年復帰した水野の報復によって失脚してしまいます。
当時の南町奉行も水野の罷免のあおりを受けて失脚、景元が南町奉行として再び返り咲いたのでした。
同一人物が南北両方の町奉行を務めたのは極めて異例のことだったそうです。
遠山の金さんといえば右上半身の“桜吹雪の刺青”を思い浮かべる方も多いでしょう。
景元は青年期の放蕩時代に彫り物を入れていたといわれています。
これがかの“桜吹雪の刺青”になるのですが、これには諸説あり、“右腕のみ”や“左腕に花模様”、“桜の花びら1枚だけ”、“全身くまなく”と様々に伝えられています。
また彫り物自体を疑問視する説や、通常“武家彫り”するところを“博徒彫り”にしていたという説もあるようです。
景元が彫り物をしていた事を確証する文献はないのですが、奉行時代はしきりに袖を気にしておりめくりあがるとすぐ下ろす癖があったとされ、奉行として入れ墨は論外なのでおそらく肘まであった彫り物を隠していたのではないかといわれていますが、これらは全て伝聞に過ぎず今となっては事実の判別は困難となっています。
景元の死後は講談・歌舞伎で基本的な物語のパターンが完成し、陣出達朗の時代小説“遠山の金さんシリーズ”などで普及しました。
景元が水野らと度々対立しながらも失脚までに至らなかったのは、将軍徳川家慶から裁判ぶりを激賞され、奉行の模範とまで讃えられたことが関係しているのかもしれません。
文字通り将軍の“お墨付き”を得ていたからこその結果とも考えられます。
このような名奉行ぶりから遠山景元の名声は、時代が江戸から明治に移っても旧幕臣をはじめとした人々の記憶に残り、景元を主人公とした講談を生み、映画やテレビの時代劇へ継承される大きな要因となったのでした。
現在では大岡越前と二分するほどの人気となりましたが、残念ながら時代劇のような裁判を実際にしたという記録はほぼありません。
当時はまだ三権分立が確立していない時代であり、町奉行の仕事は江戸市内の行政・司法全般を担当したもので裁判はあくまでも様々な業務の一つだったのです。
ですが物語としては非常に面白いのでぜひ見てみてはいかがでしょうか。
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