殉教者の日
「殉教者の日」は1948年のこの日にマハトマ・ガンジーが暗殺されたことが由来です。
当時インド・パキスタンの分離独立の影響により、宗教暴動が絶えませんでした。
ガンジーは何度も断食を行うことによって暴動を防ごうと尽力しますが、ヒンドゥー原理主義者からは「ムスリムに対して譲歩する人物」として敵対しされてしまい、最終的にはヒンドゥー原理主義者によって襲撃され、その凶弾によって命を落とすことになってしまったのです。
ガンジーがノーベル平和賞を受賞できなかった理由
“マハトマ・ガンジー”とは本名を“モーハンダース・カラムチャンド・ガーンディー”というインドのグジャラート出身の弁護士、宗教家、政治指導者です。
“インド独立の父”と呼ばれ、“マハトマ”とは“偉大なる魂”という意味であり、詩聖タゴール(インドの詩人・思想家。アジア人初のノーベル賞の受賞者でもある)から贈られたとされているガンジーの尊称になります。
ガンディーの誕生日に因んでインドで毎年10月2日は“ガンディー記念日”という国民の休日となっており、2007年6月の国連総会ではこの日を“国際非暴力デー”という国際デーとすることが決議されています。
南アフリカで弁護士をする傍らで公民権運動に参加し、帰国後はインドのイギリスからの独立運動を指揮しますが、民衆暴動やゲリラ戦の形をとるものではなく“非暴力、不服従”を提唱し、イギリス製品の不買運動などを始めました。
イギリスの綿製品を使用せずにインドの伝統的な綿製品の着用を呼びかけたり、塩税に対する抗議“塩の行進”はとりわけ有名で、かのインドの糸車を廻すガンジーの写真はこの背景があったからだと思われます。
ガンジーは1937年から1948年にかけて計5回もノーベル平和賞の候補になったものの受賞には至っていません。
これには以下のような理由が発表されています。
・1937年には彼の支持者の運動が時として暴力を伴ったものに発展したことや、政治的な立場の一貫性に対する疑問、彼の運動がインドに限定されていることへの批判があった
・1947年は、当時インドですでに起きていたヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立への対処に関し、ガンディーが非暴力主義を捨てるかのような発言をしたことで、選考委員の間に受賞に対する疑問が起きた
・1948年は最終候補3人の1人で選考委員からは高い評価を得ていましたが、故人に対してノーベル賞を与えられるかどうかで議論が起きました。
当時は規定で除外されていなかっものの、何らかの組織に所属していなかったガンディーの場合賞金を誰が受け取るかが問題となり、最終的には受賞決定後に死亡した場合以外は故人に賞を与えるのは不適切だという結論となる
・ガンジーがそれまでの他の平和賞受賞者とは異なるタイプの平和運動家であったこと、1947年当時のノーベル委員会には今日のように平和賞を地域紛争の平和的調停に向けたアピールとする考えがなかったことが影響したとされる
委員会がイギリスの反発を恐れていたともされましたが明確な証拠はありません。
ガンジーはインドの独立に貢献しましたが、“鉄道によって欲望が加速するため邪悪が広げられる”、“病院があるせいで健康に注意を払わなくなる”、“(自身が弁護士であるにも関わらず)弁護士などいらない”など西洋近代文明にかなり批判的だったとされています。
それゆえインドの人々の間では“国家を独立に導いた偉大な人物”として表向きには称える一方、その反面では彼の人物像やその思想に対して“時代遅れで非現実的”という評価を下す風潮は少なからず存在していたようです。
よく“無抵抗主義”と勘違いされやすいのですが、あくまで非暴力は暴力より優れているのであって、もし臆病か暴力を選ばなければならないのであれば暴力をすすめるとガンジーは言っています。
ただ暴力に頼るのではなく、あくまでも理不尽なことを感じた時には真っ向から戦うことも必要である、ということだと思います。
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