漱石の日
「漱石の日」は1911(明治44)年のこの日に文部省が作家・夏目漱石に文学博士の称号を贈ると伝えたことが由来です。
ですがこれに対し漱石は「自分には肩書きは必要ない」として辞退してしまいます。
当時の文部省の専門学務局長である福原鐐二郎宛に出した手紙にその理由が書かれていました。
「小生は今日まで、ただの夏目なにがしとして世を渡って参りましたし、これから先もやはり、ただの夏目なにがしで暮らしたい希望を持っております。従って、私は博士の学位を頂きたくないのであります」と。
変わり者としても知られていた漱石はパフォーマンスではないかとの声も上がっていましたが、何かしらの後ろ盾を得ることを嫌ったのではないかとも思えます。
“我輩は猫である”のモデルとなった猫
“夏目漱石(なつめ そうせき)”は日本の小説家、評論家、英文学者であり、本名を“夏目金之助(なつめ きんのすけ)”といいます。
大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学び、帝国大学(後の東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後は松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めた後、イギリスへ留学しました。
帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら“吾輩は猫である”を雑誌“ホトトギス”に発表、これが評判になり“坊っちゃん”、“倫敦塔(ろんどんとう)”などを書きます。
その後朝日新聞社に入社し、数々の小説を執筆、発表する中で“則天去私(そくてんきょし、漱石が晩年に文学・人生の理想とした境地。自我の超克を自然の道理に従って生きることに求めようとしたもの)”に達したと言われました。
晩年は胃潰瘍に悩まされ、当時朝日新聞に連載していた“明暗”が絶筆となってしまいます。
夏目漱石といえば“我輩は猫である”を読んだことがある方も多いと思いますが、この“我輩は猫である”のモデルとなった猫が存在することをご存知でしょうか。
夏目漱石がその猫を飼い始めたのは、まだ作家として一流と呼ばれるようになる前のことでした。
当時の夏目漱石は作家だけの収入では生活できず英語の教員などを務め、文部省から無理に行かされたイギリス留学(金銭面での支援も不足していたので虐めだったのではとの見解もあり)では下宿先の主人が驚くほどの神経衰弱となったりと、文部省内で“夏目発狂”との噂が立つほど精神的に参っていました。
急遽帰国させされた夏目漱石は再び大学で英語の教鞭を握るも、あまり上手くはいかなかったようです。
そんな時期に出会ったのが当時住んでいた千駄木の屋敷に度々迷い込んでいた猫でした。
生まれて間もないその子猫は夏目漱石の妻によって何度も追い出されますが、それを見かねた夏目漱石が飼うように説得します。
そして高浜虚子の勧めで精神衰弱を和らげるため処女作になる“吾輩は猫である”をその猫をモデルに執筆、初めて子規門下の会“山会”で発表され、好評を博しました。
この時から作家として生きていくことを熱望し始め、その後“倫敦塔”や“坊つちやん”と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていくのです。
作家としての夏目漱石躍進のきっかけとなったその猫は、“吾輩は猫である”の発表の3年後の1908(明治41)年9月に病気で死んでしまいます。
夏目漱石は猫を木箱に納めて自宅の裏庭に埋め、墓標の表に“猫の墓”、裏に“この下に稲妻起る宵あらん”という一句を書きました。
そう、夏目漱石はその猫に名前を付けていなかったのです。
“吾輩は猫である”の書き出しが“吾輩は猫である。名前はまだ無い”となっているように、この猫がモデルである可能性は高いと思われます。
ですが愛情が無かったというわけではないようです。
墓を建てたことや、猫が死んだ際には門下生たちに猫の訃報を報せる葉書まで送っています。
なぜ名前を付けなかったのかは今となってはわかりません。
その黒猫が当時出入りしていた按摩師の老婆から“福猫”と言われたように、実際に夏目家に福をもたらしたのは事実です。
最初は追い出していた猫嫌いの夏目漱石の妻も正月や命日には鮭の切身と鰹節一椀を供えていました。
現在でも邸宅跡地には旧居跡の石碑が残されており、跡地の一角には塀の上を歩く猫の像が置かれ漱石の愛猫を偲ぶことができます。
文豪の愛猫に対する思いを感じたい方は、ぜひ訪れてみてはいかがでしょうか。
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