パンわーるどの日
「パンわーるどの日」は2016年11月6日に岡山県総社市の各パン店などが市の特産品である「古代米・赤米」を使った「フルーツシューケーキ」を発売したことが由来で、「パンわーるど総社/So-Ja!pan委員会」が制定しました。
「パンわーるど総社/So-Ja!pan委員会」は岡山県総社市の総社商工会議所とパン製造販売店などで構成されている団体になります。
総社市は岡山県内で最もパンの製造出荷額が高く、人気のパン屋も多くあることから「パンの街」として知られており、そんな総社市のパンをより多くの人に食べてもらうことが目的で「パンわーるどの日」が制定されたそうです。
関東と関西では好まれる食パンの厚さが違う
“パン”とは小麦粉やライ麦粉といった穀物粉に水、酵母、塩などを加えて作った生地を発酵により膨張させた後、焼く事でできあがる膨化食品です。
世界の広い地域で主食となっていますが、甘みをつけたおやつ用のパン(菓子パン)も多く存在します。
人類は農耕・農業を始めるより早く採取した植物でパンを焼いていたとされており、ヨルダンでは約1万4400年前の化石化したパンが発掘されていることからも、いかに人と馴染みの深い食品であるかが分かりますね。
パンは当初大麦から作られることが多かったのですが、次第に小麦でつくられることのほうが多くなりました。
古代エジプトの頃から既にパンは盛んに作られており、給料や税金もパンによって支払われていたようで、発酵パンが誕生したのもこの時代のエジプトです。
古代ローマ時代になるとパン屋や菓子パンも出現し、ポンペイから当時のパン屋が発掘されています。
すでに石でできた大型の碾臼(ひきうす)が使われており、ポンペイで出土したパンとほぼ同一の製法・形のパンは現代でも近隣地方でつくられています。
この時代から中世までは、パンの製法等には大きな変化はありませんでした。
ヨーロッパ中世においては小麦のパンが最上級のパンとされていましたが、特に農民や都市下層住民は小麦に混ぜ物をしたパンやライ麦パンを食べることが多く、飢饉の際にはさらに混ぜ物の量は多くなっていたようです。
18世紀頃からヨーロッパでは徐々に市民の生活が向上し、また農法の改善や生産地の拡大によって小麦生産が拡大するとともに食生活の中心は小麦となっていきます。
その後、大型のオーブンの発明や製粉技術の発達により大規模なパン製造業者が出現し、19世紀に入って微生物学の発達により酵母の存在が突き止められ、これを産業化して野生の出芽酵母を選抜し製パンに適した菌株を単一培養したイーストを使うことができるようになりました。
現代では一連の冷凍→解凍→発酵までの生地の発酵管理に自動温度管理を行う発酵室を用いるなど発酵の技術の向上もみられます。
日本には安土桃山時代にポルトガルの宣教師によって西洋のパンが伝来しましたが、江戸時代に日本人が主食として食べたという記録はほとんどありません。
一説にはキリスト教と密着していたために製造が忌避されたともいわれ、また当時の人々の口には合わなかったのではといわれています。
明治時代に入ると文明開化の波のもとパンも本格的に日本に上陸するものの、米食志向の強い日本人には主食としてのパンは当初受け入れられませんでした。
その後、1874年に木村屋總本店の木村安兵衛があんパンを発明してからは次々と菓子パンが開発され、さらに惣菜パンも発達していきます。
第二次世界大戦後、学校給食が多くの学校で実施されるようになると、アメリカ合衆国からの援助物資の小麦粉を使ってパンと脱脂粉乳の学校給食が開始され、これが日本におけるパンの大量流通のきっかけとなり、1955年以降は日本でのパン消費量は急増していきました。
主食としてよく見かける“食パン”ですが関東と関西で好まれる厚さが違うことをご存知でしょうか。
関東では8枚切りが主流であり、関西では5枚や6枚、さらには4枚切りなどの厚い食パンが主流になります。
これは戦後の日本に駐留した米軍の存在が関係しているのです。
関東では多くの米軍が駐留していたため、米軍がサンドイッチを作るのに都合の良い8枚切りの食パンの需要が高く、逆に関西では手で切り分けるときに切る回数が少なくて済む厚めの食パンが主流となりました。
本当かどうかは不明ですが枚数を少なくすることで何度も買いに来させる、という目的もあったのではとされており、さすが商売の街という印象を受けますね。
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