玉の輿の日
「玉の輿の日」は1905(明治38)年のこの日にアメリカの金融財閥モルガン商会の創立者の甥、ジョージ・モルガンが祇園の芸妓・お雪を見初め、結婚したことが由来です。
この出来事は大変な話題となり、お雪は「日本のシンデレラ」と呼ばれました。
お雪とモルガンが初めて出会ったのは1901年のことで、当時30歳だったモルガンは恋人と別れたばかりで、失恋のショックの中で日本へ旅行で訪れた時にお雪と出会ったとされています。
お雪に一目惚れをしたモルガンはすぐさま求婚しましたがなかなか承諾を得る事が出来ず、結婚が承諾された1904年までに日本へ3回訪れたそうです。
求婚された時にお雪には既に10歳年上の恋人がいたそうですが、モルガンがお雪に求婚した騒動が新聞に掲載されたことが原因となって破局してしまいました。
結婚をした時には当時の4万円という莫大な身請け金が支払われてモルガンに引き取られることになりましたが、アメリカではお雪のことを「金に目がくらんだ女」などと揶揄するメディアが後を絶たなかったそうです。
また、当時のアメリカには「排日移民法」という法律が存在しており、結婚をしてもアメリカ人として帰化することが出来ない時代でした。
玉の輿の起源
“玉の輿”とは女性が金持ちの男性と結婚することにより、自分も裕福な立場になることです。
男性が金持ちの女性と結婚する場合は俗に“逆玉(ぎゃくたま)”と呼ばれますが、諺の本来の事実からすれば間違った使い方になります。
その語源は江戸時代のお玉という女性のことだとする説があります。
八百屋の娘として産まれたお玉は三代将軍徳川家光の側室となって五代将軍となる綱吉を産みました。
綱吉が将軍となった後に官位は従一位となり、これは春日局の従二位よりも上で女性としては最高位になります。
八百屋の娘が将軍の側室となることによってそこまで登りつめたということから、玉の輿の語源はこのお玉だというものですが、これはあくまでも俗説とされているようです。
玉の輿の玉とは京都の西陣の身分の低い八百屋の娘として産まれたお玉が、当時格も高く由緒もあった西陣の大店である本庄家に養女と出され、三代将軍徳川家光に見初められた後、江戸まで輿(こし)に乗って嫁いだことから、玉の輿という諺が生まれたとされています。
現在もそのお玉を養女に入れた本庄家は存在し、本庄家のある京都市上京区芝大宮町の鉾は菊の御紋が入っており、鉾は今宮神社に預けられていましたが現在は町内会で管理されています。
お玉の輿入れについても町内会が持つ資料に記載されているようです。
この頃からすでに玉の輿を狙う女性たちは存在しており、我が娘の玉の輿を願う教育熱心な母親というのも存在していました。
というのも江戸時代は男性に比べて女性が圧倒的に少なく、一般の長屋の娘であろうと玉の輿にのるチャンスがあったのです。
ですが、美貌だけで玉の輿にのれる女性は極わずかに限られており、それは母親たちも重々承知していました。
一般的な長屋住まいの娘が玉の輿にのるには武家屋敷に娘を奉公させるのが近道と言われており、我が娘を選んでもらうために、芸事をいくつも習わせる母親が大勢いたそうです。
これは、大名や旗本が奉公を選ぶときは芸事を嗜んでいることが条件の一つだったからであり、母親たちは寺子屋だけでは満足せず、三味線などの芸事を習わせるためにいくつも塾に通わせるのです。
母親は娘のためにと思っていても当の本人は大変だったことでしょう。
また、芸事を習得していても玉の輿にのれる保証は当然ありませんが、それでも一縷の望みに賭けるという女性は多かったようです。
現代でも習い事でガチガチにスケジュールが詰まっている子どもの話を聞きますが、果たしてそれが子どもにとって良いことなのかどうかはなかなか判断が難しい気もしますね。
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