一般的には巌流島の決闘で佐々木小次郎が宮本武蔵に敗北したとされていますが、最近では色々な説が出てきています。
“武蔵が決闘に遅刻した説”
これは「巌流島の戦い」の一番の通説になっていましたが違うとされています。
その理由は「決闘があったかなり後(150年くらい後)の書物に書かれたことだから」だそうです。
いろいろある書物の中で内容が全然違うのでそもそも信憑性は低いのですが、もっと古い書物らには遅刻したことは一切書かれていません。
では、なぜ「武蔵、遅刻説」が通説になっているかというと
・遅刻説をとりいれた、故・吉川英治先生の「宮本武蔵」という小説が大ヒットし有名になった。
・江戸時代での歌舞伎で、この説をとりいれた。
これらが原因だと考えられています。
錯綜する巌流島の決闘 その弐
“小次郎を殺害したのは弟子説”
これは現場にいた門司城代だった沼田延元の子孫が書き残した(先代の書いたものを編集したと思われる)書物にあります。
武蔵と小次郎はお互い弟子を誰一人連れてこないで本当1対1で戦うことを約束し、一騎打ちに臨みます。
そして武蔵が勝者となりますがこの時武蔵は小次郎を気絶させただけで殺してはいませんでした。
実は武蔵は隠して弟子たちを島へ連れて来ており、小次郎は気絶から回復し起き上がろうとするも、隠して連れて来ていた武蔵の弟子たちに見つかり殺されるというものです。
これはかなり信憑性のある説みたいです。
錯綜する巌流島の決闘 その参
“巌流島の戦いの時小次郎はすでに老人説”
これは小次郎の人生について詳細がはっきりしないので何とも言えません。
武蔵は1584年生まれであることは史料から明らかになっていますが小次郎についてはほとんど何も分かっていないのです。
そこで参考にされたのが小次郎が入門していたとされる道場です。
この道場が盛んだったのが1560年頃だといわれています。(その道場は朝倉氏の領地で1573年に朝倉氏は滅亡しています)
仮に小次郎が道場に入門したのが1560年ごろで、その時15歳だとしても武蔵が生まれる頃には小次郎はすでに40歳になります。
「巌流島の戦い」時点での武蔵の年齢は、書物によってバラバラなのですが一番若くて17歳、老けて29歳とされています。
武蔵が17歳でも、小次郎は57歳。武蔵が29歳なら、小次郎は69歳となり当時としてはかなり高齢だった計算になります。
錯綜する巌流島の決闘 その四
“佐々木小次郎は架空の人物説”
これは、宮本武蔵の著書「五輪書」に小次郎が出てこないのが理由となっています。
五輪書は武蔵の兵法の極意をかいた本のことで、自伝でもあります。
それに大決闘と言われる「巌流島の戦い」のことがなにも書いていないのです。
そのせいで「巌流島の戦いは後の創作でありそもそも佐々木小次郎という人物は存在しない」と一部で言われているのです。