旅の日
「旅の日」は元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅へ旅立ったことが由来で、日本旅のペンクラブ(旅ペン)が1988年に制定しました。
せわしない現代生活の中で「旅の心」を大切にし、旅のあり方を考え直す日とされています。
松尾芭蕉、実は忍者だった説
松尾芭蕉は俳句の元である“俳諧(はいかい)”を、芸術として完成させた江戸時代前期の人物です。
名前の“芭蕉”とは、彼が1680年頃に名乗った俳句を作る人が名乗る“俳号”であり、本名は松尾宗房(むねふさ)と言いました。
松尾芭蕉の代表作である“奥の細道”とは、実際の旅の行程を記したいわゆる“紀行文”と呼ばれる作品になり、主に東北地方から現在の富山県や石川県といった北陸を旅していて、その場所ごとに松尾芭蕉が詠んだ俳句も記されています。
この“奥の細道”で知られる松尾芭蕉には、昔からある仮説が存在します。
それが“松尾芭蕉忍者説”です。
俳句の旅というのは建前で、本当は日本中の諸藩を回って内情を偵察していたのではないかという説になります。
まず、芭蕉が生まれたのは1644(寛永21)年のことで、出身地はいわゆる“忍びの里”である伊賀国だと伝えられています。
生家は百姓でしたが姓を名乗ることを許されていました。
この当時姓を名乗れたのは武士階級と、“土豪”と呼ばれる一部の農民階級だけでした。
伊賀忍者の中には姓を名乗れる身分のものも居たこともあり、“松尾芭蕉忍者説”に拍車を掛けています。
この論拠は単純に“伊賀=忍者”、“伊賀=芭蕉”、“芭蕉=忍者”という三段論法で導かれたのではと思われます。
次に、芭蕉の時代では旅行というものはそう簡単に行えるものではありませんでした。
各関所での取り締まりと多大な旅費が掛かるため、庶民の立場では旅などとても無理なものなのです。
関所を自由に通過できる伊勢参りにその夢を託すしかなかった時代だったにも関わらず、芭蕉は数回に渡り旅を行っているのです。
日本橋時代に知己を得た武士階級の伝手を使って通行手形を手に入れたとしても、旅費をどうやって工面したのかと言う問題が残ります。
よって“幕府が公認した密偵として手形と資金を提供されていた”と考えるほうが自然かもしれません。
そして“松尾芭蕉忍者説”の最も大きな論拠となっているのが“奥の細道”の旅です。
移動距離と日程から割り出される芭蕉の移動速度が一般人離れしているということが挙げられます。
“奥の細道”の旅の総移動距離は約2400kmで、総日程が約150日となっています。
これらの数値から一日あたりの移動距離を割り出すと2400÷150=15kmで、当時の単位に換算すると約4里と言う所です。
しかし150日ずっと移動していたわけではなく、この総日程にはまったく移動しない日も当然含まれています。
この移動しなかった分を取り戻すかのように一日で50km以上も移動している日が存在し、年齢的には壮年に差し掛かっていた芭蕉がこれほどの移動距離を一日で歩くのは無理があるのではと考えられています。
密偵としての仕事をこなせるようある程度の修練を積んでいたからこそ、こなせた日程なのかもしれません。
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