裏切りの日
「 裏切りの日」は1582(天正10)年のこの日、本能寺の変で、織田信長が明智光秀に裏切られて攻められ、本能寺で自害したことが由来です。
中国の毛利攻めに難儀している羽柴秀吉の応援を命じられた明智光秀は、進軍の途中で道を変更し、本能寺の織田信長を襲いました。
襲撃を知った信長は近侍の森蘭丸に誰の襲撃か尋ね、光秀と聴くと「是非もなし」と応えて自害したと、『信長公記』に伝えられています。
織田信長生存説
織田信長とは戦国時代から安土桃山時代にかけての最も有名な武将・戦国大名の一人です。
尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大します。
足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令しました。
後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となり、これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけることになります。
しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害したとされています。
この“本能寺の変”は戦国史上最大のミステリーとされており、今でも度々議論がされています。
中には“織田信長生存説”なるものも存在するのです。
というのも本能寺をくまなく探しても、信長の遺体は最後まで見つかることがなかったことからこの説は生まれました。
イエズス会の手引きで海外へ逃亡した、薩摩に逃げ落ちた(が、ひどい怪我ですぐに亡くなった)、秀吉に見つかって大阪城に幽閉された、などがあります。
遺体が見つからなかった点については、本能寺には当時火薬が多く保管されており、信長は自ら爆死を選んだという説もあるようです。
また、首謀者とされている明智光秀も本能寺の変の後、豊臣秀吉との戦に負け、農民によって殺害されたというのが一般的ですが、この明智光秀についても生存説がささやかれています。
江戸幕府が開かれた後、家康の近くには“南光坊天海”という名の僧がおり、これが実は明智光秀で彼は秀吉には討たれずに生き延びて家康に仕えていたという説です。
天海は南光坊という名で関ヶ原の合戦にも描かれており、彼にまつわる様々なエピソードから天海=明智光秀という図式が見えてくるようです。
南光坊はなんと108歳まで生きていたとされており、平均寿命が30代という時代にはかなりの長寿となっています。
実際にこの説は支持され、テレビ番組で天海と光秀の筆跡鑑定も行われました。
その結果、同一人物、または同一人物でなくとも近しい人だということで、天海=明智秀満(光秀の娘婿)という説や、天海=光秀・秀満2代説もあるようです。
この明智光秀が織田信長に謀反を起こした理由としては諸説ありましたが、どれも確定したものではありませんでした。
ですが2014年6月に新たに見つかった資料で“四国攻め回避説”が真実味をおびてきています。
当時、四国では同盟関係にあった長宗我部元親が信長によって統一を許されていましたが、信長は急に方針を転換します。
四国の一部の領土しか認めないと言い渡しますが、当然元親は受け入れず双方は対立してしまいます。
そして信長は四国に向けて討伐の兵を差し向けることを決めました。
この元親と信長の同盟を取り持っていたのが光秀で、信長の四国討伐をとめようとして本能寺の変を起こしたという説です。
未だ議論が続く”本能寺の変”。
その黒幕として徳川家康、豊臣秀吉、黒田官兵衛(黒田孝高)、濃姫(信長の正室)近しい人たちの名前があげられています。
光秀&家康共謀というのもあり、更に、朝廷、イエズス会、堺の豪商、信長に将軍の座を追われた足利義昭、そして信長が統治しようとしていた地域の権力者たち。
いつか真実が解明されることを願います。
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