ネルソン・マンデラ・デー
「ネルソン・マンデラ・デー」は南アフリカ共和国の政治家で、反アパルトヘイト運動を主導したネルソン・マンデラの誕生日(1918年)であり、ネルソン・マンデラを賛える国際的な記念日です。
アパルトヘイト政策とは、白人以外の黒人などの人種を差別する政策で、南アフリカ共和国で近年まで堂々と行われていました。
ネルソン・マンデラはこの悪しき政策を撤廃するために活動を行ったのですが、1962年には逮捕されてしまい、1964年から27年間も投獄されて牢獄で暮らすこととなってしまいます。
釈放された後、1994年には南アフリカ共和国初の全人種の参加ができる大統領選挙が行われ、ネルソン・マンデラが大統領となりました。
この時にアパルトヘイト政策は完全に撤廃され、自分が権力者になっても白人に対し差別することはなく、自分を無実の罪で投獄した権力者たちへ復讐をすることもなかったそうです。
反アパルトヘイトの闘士
ネルソン・マンデラ(1918年7月18日-2013年12月5日)は南アフリカ共和国の政治家、弁護士です。
マンデラは1918年7月18日にトランスカイのウムタタ近郊クヌ村で、テンブ人の首長の子として生まれます。
少年時代には、首長から部族社会の反英闘争の歴史や部族の首長が持つべきリーダーシップや寛容の精神を聞いて育ち、この時の経験が彼の反アパルトヘイト運動を根底から支えました。
メソジスト派のミッションスクールを卒業した後、フォート・ヘア大学で学び、在学中の1940年には学生ストライキを主導したとして退学処分を受けます。
その後、南アフリカ大学の夜間の通信課程で学び1941年に学士号を取得し、その後ウィットワーテルスランド大学で法学を学び、学士号を取得しました。
1944年にアフリカ民族会議(ANC)に入党し、その青年同盟を創設し青年同盟執行委員に就任して反アパルトヘイト運動に取組むのです。
1948年にダニエル・マラン率いる国民党が選挙に勝利し政権を奪取すると、新政権は急速にアパルトヘイト体制を構築していき、ただでさえ制限されていた黒人の権利はさらに制限されるようになっていきました。
このためANC内でも政府へのより強硬な対決姿勢を求める声が高まっていき、なかでも青年同盟の有力メンバーであるマンデラはその先頭に立ちます。
1949年には穏健な旧指導部を追い落とし、青年同盟からマンデラらが指導部メンバーに選出され、以降ANCは請願路線からストライキやデモなどを盛んに行って政府に圧力をかける戦術に転換しました。
活動の中で、非暴力的手段の限界が叫ばれるようになり、ANC内でも武装闘争を支持する声が大きくなっていきます。
そして1960年にシャープビル虐殺事件が起きるとマンデラも武装闘争路線へと転換し、1961年11月にウムコントゥ・ウェ・シズウェ(民族の槍)という軍事組織を作り最初の司令官となりました。
しかし、それらの活動などで1962年8月に逮捕され、また1963年7月にはANC指導部がヨハネスブルク近郊のリヴォニアにおいて逮捕され、すでに獄中にあったマンデラもこの件で再逮捕されます。
リヴォニア裁判と呼ばれるこの裁判で、マンデラは1964年に国家反逆罪で終身刑となりロベン島に収監され、その後各地を転々とします。
獄中にあってマンデラは解放運動の象徴的な存在とみなされるようになり、マンデラの釈放が全世界から求められるようになっていきました。
1990年2月2日に当時の大統領デクラークはANCほか禁止されていた政治団体の活動許可とともにマンデラ釈放を約束し、1990年2月11日にはマンデラは釈放されます。
釈放後の第一声はケープタウンの市役所のバルコニーで行われ、10万人の聴衆が彼の釈放を祝いました。
釈放後、マンデラはANCの仮本部の置かれていたザンビアの首都ルサカに行き、病気療養中だった議長オリバー・タンボを代行する形でANC副議長に就任し、再びアパルトヘイトの撤廃に向けて取り組むこととなったのです。
1994年4月27日に南ア史上初の全人種参加選挙が実施され、この選挙でANCは得票率62.65%、252議席を獲得して勝利し、マンデラは大統領に就任しました。
マンデラ政権が最も心を砕いたのは、アパルトヘイト体制下での白人・黒人間、またインカタ派とANC派などといった対立をいかにして収め、全人種を融和させるかということで、様々な手を打っていきます。
そして引退し、2013年6月に危篤、症状は安定していたものの2013年12月5日(日本時間6日未明)、ヨハネスブルグの自宅にて95歳で死去します。
2013年7月18日には国際連合は本部で“ネルソン・マンデラ国際デー”の式典を開き、ネルソンの功績を称えると共に回復を祈っていました。
追悼式にはアメリカ3大ネットワークとCNN・BBCもそれぞれのアンカーマンを現地(ヨハネスブルグもしくはプレトリア)に派遣し、各国からも日本の皇太子徳仁親王、イギリスからはチャールズ皇太子とデーヴィッド・キャメロン首相、アメリカ合衆国よりバラク・オバマアメリカ合衆国大統領及びビル・クリントンやジミー・カーター元大統領、ブラジルのジルマ・ルセフ大統領、キューバのラウル・カストロ国家評議会議長など各国の国家元首もしくはそれに準ずる人物が出席し、追悼式典のVIP席でバラク・オバマとラウル・カストロが握手する、弔問外交となりました。
こうして差別政策に真っ向から対抗した、ネルソン・マンデラという闘士の生涯は幕を閉じ、今も尚その功績は称え続けられています。
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