金シャチの日
「金シャチの日」は名古屋市の市章が「八」であることと、しゃちほこの形が「2」という形に似ており、名古屋城の天守の左右に二つあることが由来で、名古屋市で鍼灸接骨院を経営する川村芳彦氏が制定しました。
川村芳彦氏によるとこの日を「名古屋城大天守の金のしゃちほこをさらに多くの人に知ってもらう事と、金のしゃちほこにあやかって名古屋を元気にすること」を目的としているそうです。
何度も盗まれた名古屋城の金の鯱
“金鯱(きんしゃち、きんこ、きんのしゃちほこ)”とは、金色に装飾を施した鯱のことです。
城郭建築の天守には、金箔押の鯱瓦と金板張りの木造鯱の例があり、金箔押の鯱瓦では創建当初に岡山城天守へ載せられたとされるものを再現したものが見られ、金板張りの木造鯱では現在は名古屋城大天守へ載せられていたものを復元したもののみ見ることができます。
また、現代では金箔や金の板を張ったものは少ないですが、寺院や住宅、商業施設などにもあげられている例があり、本圀寺(京都府京都市)に見られます。
鯱に初めて金を施したのは、織田信長の安土城天守とも羽柴秀吉の大坂城天守ともいわれ、豊臣政権下では、許可を得ずに瓦などに金を施すことは許されていなかったとされています。
関ヶ原の戦い以降、豊臣政権の弱体化により権力が家康に移ると実質の築城規制の解禁がにわかに起こり、同時に天守建設が流行すると金鯱(金箔押鯱瓦)や金箔瓦を上げる大名が増えていきましたが、徳川政権(徳川幕府)が固まると、築城に関する規制が起こり始め、1615(元和元)年以降は、築城・天守造営の原則禁止にともない、金箔や金板を張った鯱を上げられることはほとんどなくなり、建物の修築後は、財政難から質を落としたり、まったく張らないようにした城が多くなりました。
名古屋城の金鯱は1612(慶長17)年に竣工され当時の金鯱は一対で慶長大判1940枚分、純金にして215.3キログラムの金が使用されたといわれており、高さは約2.74mありました。
しかし、鯱の鱗は藩財政の悪化により、1730(享保15)年・1827(文政10)年・1846(弘化3)年の3度にわたって金板の改鋳を行って金純度を下げ続けます。
そのため、最後には光沢が鈍ってしまい、これを隠すため金鯱の周りに金網を張ってカモフラージュするようになり、この金網は表向きは盗難防止(実際に何度か盗難にあった)や鳥避けのためとされ、戦災により焼失するまで取り付けられていました。
1871(明治4)年に政府に献納、東京の宮内省に納められ、その後1872(明治5)年に開催された湯島聖堂博覧会への出品、雄鯱は石川・大分・愛媛などで開催された博覧会へ出品、雌鯱は1873(明治6)年のウィーン万国博覧会に出品されたのち、雌雄金鯱が大天守に戻ったのは1879(明治12)年2月になります。
徳川の金鯱の中では最も長く現存していましたが、1945(昭和20)年に名古屋大空襲で焼失してしまい、残骸は戦後GHQに接収され、のち大蔵省に移されましたが、1967(昭和42)年に名古屋市に返還されました。
名古屋市は残骸から金を取り出し、名古屋市旗の冠頭と、金茶釜に加工して保存しています。
現在の金鯱は復元されたもので、再建天守建造の時に日本国内に数えるほどしか残っていなかった鎚金師であった大阪造幣局職員の手により製造され、一対に使用された金の重量は88キログラムであり、現在の鯱の大きさは、雄2.62m、雌2.57mです。
この金の鯱ですが過去に幾度となく盗難にあいました。
古くは江戸時代、大凧に乗って金鯱に近づこうとした柿木金助(かきのききんすけ)の伝説があり、明治以降では4回発生しており、犯人はいずれも盗んだ鱗を鋳潰し売却しようとして逮捕されています。
・1871(明治4)年3月 廃藩置県後、宮内庁への献上の際、鱗3枚盗難。犯人の陸軍名古屋分営番兵は銃殺刑。
・1876(明治9)年4月 東京博物館保管中に盗難。犯人は懲役10年。
・1878(明治11) 復元作業中に盗難。犯人は陸軍兵卒であるとされ軍の機密として処理されたため詳細不明。
・1937(昭和12)年1月6日 名古屋城下賜記念事業で実測調査中の1月6日朝、名古屋市建築局技師が雄の胴体の金鱗110枚のうち、58枚が盗難されている事に気付く。愛知県刑事課は報道を全面禁止し全国指名手配。下賜記念事業中だったため、当時の名古屋市長が引責辞任する事態となった。同月27日、金鯱の売却現場で犯人が逮捕され懲役10年。
現在の名古屋城の金の鯱は復元されたものであるものの、観光としては一見の価値はあるのは間違いありません。
金の鯱をモチーフとしたお土産なども多数ありますので、名古屋を訪れた際はぜひ見てみましょう。
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