天ぷらの日
「天ぷらの日」は7月23日が二十四節気の一つである「大暑」にあたることが由来です。
二十四節気はあまり耳馴染みのない言葉かもしれませんが、一年間を二十四に分けることによって、より季節をわかりやすくした暦日だと思ってもらえればイメージしやすいと思います。
「大暑」については次の二十四節気である「立秋」までの期間であり、この期間は「暑中」と呼ばれ、一年間の中でも最も気温が上がって暑くなる時期だとされており、夏の暑さによる食欲の低下があり夏バテしがちになってしまいます。
そこで栄養がたっぷりの天ぷらを食べて元気に過ごそうという考えから「てんぷらの日」が制定されたのです。
夏バテ予防のためにも夏の土用の丑の日にはうなぎを食べることが有名となっていますが、天ぷらや焼き肉なども夏バテ防止のための三大食べ物だとされています。
天ぷらの歴史
“天ぷら(てんぷら、天麩羅、天婦羅)”とは、魚介類や野菜等の食材を小麦粉を主体とした衣で包み、油で揚げて調理する日本料理のことです。
“そば”や“寿司”と並ぶ“江戸の三味”の一つであり、江戸料理、江戸(東京)の郷土料理となっており、現代では天ぷらは日本国内だけでなく、国外でも人気があります。
“てんふら”という名称で文献上に初めて登場するのは、江戸時代前期の1669(寛文9)年刊『食道記』です。
ただし、“素材に衣をつけて油で揚げる”という料理法は既に精進料理や卓袱料理などによって日本で確立されていたため、それらの揚げ物料理と天ぷらの混同によって古くから起源・語源に混同が見られるようです。
こうした経緯もあり、今でも西日本では魚のすり身を素揚げしたもの(揚げかまぼこのじゃこ天や薩摩揚げなど)を指す地域が広くなっています。
江戸時代の料理書では、これらの両方を“てんぷら”と称していました。
『鸚鵡籠中記』の1693(元禄6)年1月29日の項に酒肴として“てんぷら”についての記述がありますが、どのような料理かは不明です。
16世紀には、南蛮料理を祖とする“長崎天ぷら”が誕生します。
これは衣に砂糖、塩、酒を加えラードで揚げるもので、味の強い衣であるため何もつけずに食するものでした。
これが17世紀に関西に渡り、野菜を中心としたタネをラードに代わりごま油などの植物油で揚げる“つけ揚げ”に発展します。
そして、江戸幕府開府とともに天ぷらは江戸に進出、日本橋の魚河岸で商われる魚介類をごま油で揚げる“ゴマ揚げ”として庶民のあいだに浸透していったといわれています。
当時の天ぷらはゴマ油で揚げることで魚の生臭さを消し、同時に魚介類の保存期間・賞味期間を少しでも延ばそうという狙いもあったようです。
現代の天ぷらの料理法とほぼ同じものが詳細に明記された文献としては1671(寛文11)年の『料理献立抄』などがあります。
この形が出来上がった江戸時代前期には、天ぷらは“天ぷら屋”と呼ぶ屋台において、揚げたての品を串に刺して立ち食いする江戸庶民の食べ物でした。
東京国立博物館蔵の『近代職人尽絵詞屋台の天ぷら屋』には、“江戸の三味”と呼ぶ天ぷらの屋台が描かれており、蕎麦・寿司・てんぷらの他、うなぎ屋などの屋台料理が盛んだったようです。
江戸時代になってから油の生産量が増え、江戸の屋台で始まった天ぷらのメニューは大衆に広がっていきました。
屋台ではなく天ぷら店として店舗を構えるようになったのは幕末近くになってからでした。
明治に入り、料亭や天ぷら専門店が広がるとともに大阪にも天ぷらが伝わることになります。
大正時代の関東大震災において職を失った職人が各地に移り、各地へ江戸前の天ぷらを広めることとなったのです。
また、関西の職人が上京したことから野菜揚げに塩をつけて食べる習慣も東京に広がりました。
その後、屋台の天ぷら屋は姿を消して、天ぷら専門の店舗が目立つようになります。
一方、下町では一種の総菜屋(あるいは、子供・学生向けのおやつや軽食)としての庶民向けの天ぷら屋も存在しており、織田作之助の小説『夫婦善哉』やその映画化作品にもこうした天ぷら屋が登場しています。
現代では変わり種として、アイスクリームや饅頭の天ぷらなどが存在します。
たまには珍しい食材を使って天ぷらを作ってみるのも一興かもしれません。
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