チャールズ・オーガスタス・リンドバーグ(英語: Charles Augustus Lindbergh, 1902年2月4日 – 1974年8月26日)は、アメリカ合衆国の飛行家で、ハーモン・トロフィー、名誉勲章、議会名誉黄金勲章の受賞者です。
1927年に「スピリット・オブ・セントルイス」と名づけた単葉単発単座のプロペラ機でニューヨーク・パリ間を飛び、大西洋単独無着陸飛行に初めて成功し、1931年には北太平洋横断飛行にも成功しました。
リンドバーグの凄い点は“睡魔に打ち克って、長時間にわたり能力を保ち続けた精神力”と思われます。
実は、リンドバーグは出発の前日に一睡もできず、徹夜開けの状態で飛行機に乗り込んでおり、その状態から33時間眠らずに操縦し続けたのです。
リンドバーグの著書『翼よ、あれがパリの灯だ』(恒文社刊、佐藤亮一訳)には、1時間ごとの飛行記録が載っていますが、同書は睡魔との戦いの言葉で埋め尽くされているそうです。
当時の飛行機は、自動操縦などは当然付いていないのでパイロットが眠ったら操縦不能になって墜落してしまいます。
眠気と戦いながら適切な操縦を保ち続けて、長時間飛行を成功させたことが偉業と言われる所以です。
大西洋横断飛行に成功した後、北太平洋の航空路調査のため、妻のアンさんと一緒に水上機シリウス号で日本にも飛んできていました。
根室、霞ケ浦、東京、大阪、福岡など立ち寄った各地で大歓迎を受け、当時の新聞なども夫妻の来日を大きく報じています。
ですが満州事変などにより日本とアメリカの関係は悪化して行きます。
その後、1歳半の長男を誘拐・殺害されたり、移住した欧州でナチ時代のドイツ空軍に招かれてドイツの空軍力をみたこともあって、第二次大戦への米国参戦には猛反対し、ルーズベルト大統領と大論争になり、一時は非愛国者の批判も浴びたりもしました。
しかし日本の参戦後に、一市民として戦争に参加しゼロ戦と戦ったこともありました。
またリンドバーグは機械工学の知識を生かし、人工心肺の原型を開発するなど医学にも貢献します。
戦後はパンアメリカン航空のアドバイザーなどとして航空業界に関わる一方、環境問題に取り組み、野生生物の保護活動などに注力していきます。中でも特に鯨の保護に熱心だったようです。
日本にも鯨保護の名目で、大阪万博に合わせて、2度目の来日を果たします。
死後30年後にはドイツに隠し子が発覚し、話題を集めています。
航空史に偉大な一歩を刻み、一躍英雄となる一方で、愛児の誘拐事件や戦時中の様々な批判など苦悩も味わったリンドバーグ。
その墓は最期の時を過ごした別荘があるハワイの教会にあります。
著書の中で彼は大西洋横断に飛び立つ直前、こうも言っています。
“ヨーロッパ全航程にわたる完全無欠な好天候の確報なんか待っていられるもんか。今こそチャンスだ。よし、明け方に飛びだそう!”
たとえ条件が悪くても冒険する心を遮る物は存在しない、そんな彼の心情を表している一言だと思われます。